※これは特定アーティストを誹謗する意図を持つ文章ではありません。
移動中にフジファブリックの新譜を聴いた。このアーティストの作品を聴くのは初めてのこと。聴き始めた瞬間にくるりの『さよならストレンジャー』が頭の中を駆け巡り始めた。フジファブリックは3曲目まで耐えた。結局我慢しきれずiPodのホイールに指を滑らせてくるりのそれを再生させた。新幹線がホームを出る直後、最後の曲まで聴き通した。
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音楽の市場は極端に狭い。一方、同年齢層で輪切りにすると「音楽を聴く」という行為一つとってもその方法、スタンス、流行はとらえどころがないほどに広いものになる。それを端的に現しているのが「類似の飽和」ではないだろうか。ミュージシャンにとってのルーツとなる音楽、その源流も既存のものという名の下に限定される。リスナーにとっての目安となる音楽の種類は相似と語るのがふさわしい。特定のジャンル、相似の音作り、二番煎じ、三番煎じ、時代が作り出す傾向、同世代性。相乗効果で聴き漁るという行為が発生する。しかしそのコアとなる音楽の種類は自ずと限られる。それでも次から次へと放出させられる、そして手を伸ばす、聴き漁る。
聴き漁ることが耳を肥やすことへとつながる。しかしそれはあっさりと飽和してしまう。飽和した先には同類が待ち構えている、またはルーツに行きつく。しかしそのルーツも無限ではない。メロディとアレンジの発明の元に、やはり同時代性や類似系に依存して少しの加工の下に掘り下げてられていく。
作り手でもなく聴き手でもない音楽の送り手はその対象を見極め選び出す。くるりとフジファブリックの間には一回りの世代の差があり、それでいてリスナーは重複するところにある。前述の聴き漁る行為において必ず重なるところに位置づけられる。それでも類似系を好むこの耳がその類似を好ましいものとして受け入れる。または知った顔をして受け入れていることもあるだろう。
その点で作り手であるところの後発組は常に別の切り口を求められているのかもしれない。それはそれで不憫なことなのかもしれないが、類似系を求める耳たちにとってみれば過剰摂取こそが喜びでもある。存在する意味は少なからず発生している。
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かくいう自分は音に付加価値を求めたがる傾向にある。音以外の想像力をかき立てられるか否かに自ずと傾いていく流れだ。同時に「類似としての二番手」への接触方法、接点を探しあぐねることも多い。音に接することのできる時間は限られている。限られている中で自分の感覚を増幅させるために音楽を摂取するのであれば、ジェネリックであるところの二番手よりも私の目にとっての先駆者であるところの旗手を選択する。
その点で失敗したのがフジファブリックなのかもしれない。もしくるりよりも先に出会っていたのであれば旗手は入れ替わっていた。いや、本当にそうなのだろうか。想像力をかき立てさせる音楽として、くるりとの出会いのタイミングは必然だったのではないだろうか。
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音楽という素材に対し、音楽からかけ離れた位置で価値を求めようとする。そこに求める満足をアーティストに課すのは贅沢でもあり不遜でもある。それを承知の上で、やはり自分は常に旗手を求める。そして惜しくもタイミングを逃してしまったアーティストは記憶の隅に追いやられるようにできている。それでいい。音楽を覚えるという行為から先へ進み、音楽を嗜むところに自分がさしかかっているということの表れでもあるから。