一ヶ月であれば大げさにできている。ところが日々は一日ずつであるからして、その大きさに気づかずに終わっている。今さら当たり前のことを当たり前のように繰り返しながら、それでも何かしらの大きな、降りかかってきたイベントを無視することもできずに、そしてそれによって「小さな日々」が失われたときになって初めて、その小ささの偉大さを見せつけられることになる。小さく大きい。音で満たすことによって意識を逸らす。うめいているPCの風切り音になって初めて、そこでじっと自分を待ち構えていた静寂があることに気がつく。目を逸らそうと無駄な努力をしていたことに気がつく。
それでも僕は音を続けることを止めない。それを止めることで時間が止まってしまうだろうその同期、リンク、クロックが持つ痛みを伴わない無意識に恐れを抱いているから、続けることを止めない。止めると同時に気絶を伴うものとして扱う。もしくはそれ以外の集中を求めるかだ。
パーツは単純。パーツは安直。パーツは予想外。
でもここに生きている。回遊権を放り投げることなく生きている。空気の中に見え隠れしているプランクトンをひたすら探索摂取し、言語という名の鰓を通して翻訳された自分を放り投げている。
音楽は止まらない。明日も止まらない。今、今日は昨日になった。その瞬間は存在し得ない。なんと。
今日になった今日を迎えて初めて、昨日の重さを知る。積み重ねた先のジェンガは崩れない。自分が信じている限りは崩れない。器は器であり続ける。何かを生み出すかもしれない器、何かを放り出すかもしれない器、何かにぶつけてしまうかもしれない器。それでも質量は保存される。自分という質量がここにあり続ける限り、回遊を放棄することはない。偽はまた真なるか。
ここに自分があるということのみ真。