精巧な模写に成功した人も、その人に見せない裏側では原画を超えることが許されないという悔しさをガマガエルを壁面に投げつけてその血が飛び散る様子を見ることで落ち着かせることもあるだろう。
このハイブリッド SACD に収録されている CD パートにおける『パイレーツ・オブ・カリビアン / 呪われた海賊たち』に描かれている、描こうとしたその力の限界を表現したいがために持ち出した表現でもある。この演奏が収録されたホールを満たした全ての空間を収めきるには、 CD というフォーマットはあまりにも器が小さすぎる。音を潰し、パンケーキのような器の中に押し込んでは容積に対して密度を高めることで誤魔化して収録しているに過ぎない。
その瞬間、器は破綻に至り無駄で残酷な血を飛び散らせる結果に至る。
一方 SACD はその全ての定位と残響、楽器が持つアタックとホールが持つリバーブとを最大限に活かす、吹奏楽ならではのデフォルメをいともたやすく収めきってしまうのだ。
当然でもあり神を天から引きずり落としたとしても不可能なことに、演奏者がそこで意図した音を室内に持ち込むことはできないという事実がある。偶発性におけるライブという意味のみならず、そこに存在する音の持つ意識をパッケージすることが不可能ということだ。だからこそ人間が持つ想像力を利用し脳内で補完ないし置換を行い、その行為に酔いしれることで音楽を理解しようとする。音楽を飲み下しては征服したような気分に酔いしれようとする。
技術はそれを完全に叶えることのできる魔法の杖たることはできないが、しかしそこに近づこうとするための言語として利用することができる。それが CD に対する SACD という答えであり、また演奏に対する SACD という答えでもある。
なぜ配信音楽時代に逆行するかのように SACD というマニアにのみにしか通用しない言語を用いるか。それはその言語を理解するからこそ得られる多くの音分化を摂取することに飢えている人間がここに一名存在しているからである。
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ということで13,000円のこのプレイヤーでもSACDは十二分に楽しめる。損はさせない。ソフトにかける費用に換算してわずか数枚分で購入できるこの言語翻訳機を導入しない理由が見つからない。
ref.
Disney on Brass / 佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラ (2008)