わずか8時間と弱。その間に起きたことをいちいち書き遺したところで、数年後の私の肥やしになる可能性は低く、そしてそれ以外の何かとして実るだろう可用性は占いようがなく。それほどまでにそれらは日常を映した私自身そのものであって、変幻自在、言い値の貨幣、その程度でしかない外貨のようなものであり。
タイミングの悪い不機嫌な電話応対をもとにした私の端的なウェイトダウン、せいぜい2cmほどの身長がめり込んだ結果、笑い話にしかなりようのないやるせなさに打ちのめされたりもした。そうかと思えば、350kmと丸一日のディスタンスを感じさせないような弾む声に助けられもした。
それでありながらもふらりとこぎだした自転車の一筆書きに耳をもがれそうになりながらも太腿全ての細胞を平面のアンテナにして、全身を凍み渡らせながらの冬を、ピン刺し満身に悦ぶ者のことを羨んだりもした。なんて薄い危険。悦びはノーギャラの快。
フリーダム!と叫んでいた忘却芸人のあのあざとさを思い出すかのように突き動かされ、制限付きのフリーダムもどきに躍ってみたりもする。小槌が打ち出した部屋番号、数字の並びに気づいたのはラストオーダーを知らされて後、お手洗いに立ち部屋を振り返ったときのことだった。ああ、誕生月。形ある物の亡くなる瞬間の誤解に惑い続けるこの二月、如月。ああ、私は如才なきを知らず。
数週間前の降雪スリップ。メガネの破損、肋骨の損傷、右掌に塞がりかけている傷をBGMのフラッシュバックになぞり帰宅する未明。何気なく思い出した一月一日(いちがついっぴ)の酔いどれメモを形にしようとキーボードに向かいつつ、時間が崩れてしまう月明け。
ペンも思うように動かなければ、だからこそと引き寄せたキーボードのタイピングも思うところに追いつくことをあたわず、カーテンの継ぎ目から差し込みはじめた朝日を目に入れて告げるギブアップ。オクラと海藻が添えられたコンビニ蕎麦では飽きたらず、卵黄、ニラ、そして年を越したはずのフリーズド納豆を放り込んではひたすらに混ぜる。
器を変え、それでもなお主である蕎麦の存在を忘れてしまったのかのように膨張する具材をひたすらにぐるぐると混ぜ合わせて。それこそが擬似的な私。具材に覆いこまれて、主体と行き場を失う。せめてこの腹を冷やして己の業に眠り込んでしまうだろうドンファンを思い描きながら。無論その色に対しては夢を描く、ないし、絵空事であるところの他人であろうとする、子供じみた願望であることは当然のこととして。
さて、目的の見えないスタミナを蓄えた後に眠る夢は何か。それは目覚めの頃に追い込み続ける連日の太陽回避。飽きも繰り返しているアイムヒアアイムヒアアイムヒア。