2007年02月08日

Nightbird / erasure (2005)

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シャッフル君がランダムに選んでくれた数十曲にたまたま erasure と PET SHOP BOYS が同居していた。女王様の国のポップス好きなら誰もが知っているゲイエレポップの双璧。

食事をしている隣の席にやたらと接触率の高い男女カップルがいたとしても、彼ら・彼女らのセックスを想像する気にはなれない。それがたとえ食事中でないとしても、やはりそれを想像する気にはなれない。おそらく理由は単純なところにあって、二人の行為における臭いと分泌物を切り離してそれを想像することができないからだ。自分たちが発する分泌物でないものが濃厚に絡まり合うという時点で、間違いなく生理的に受け付け得ないものであり、ゆえに理性的にも想像を許さないのだろう。もちろん自分がお堅い人だというわけではない。自分主体でならいくらでも想像自由だ。

で、ゲイの話。おそらく世間一般というあたりの標準偏差よりは少々はみ出したところに分布している友人と幸運にもお付き合いさせてもらっているが、なぜか同性愛者が存在しない。仮に存在していたとしてもカミングアウトされていないということか。そういった理由で、本当に運の悪いことにまだ彼らの生の声に接したことがない。

ここまでは言い訳の前振り。本題「ゲイのセックスは、前述の男女のセックスよりもさらに想像からは遙かに遠ざけたいところにある」。

その理由は間違いなく臭いと分泌物にある。本当に申し訳ないことなのだろうけれども、男性同士の汗が絡まる場を 3D で想像させられるのはかなり辛い。想像しようとした瞬間にむせかえってしまう。それ以上の分泌物は言うまでもなく。そこに自分が主体として登場し得ないのは、たとえ想像に鞭打ってさらに拍車を掛けたとしても、たとえば相手の肌に舌をはわせるという行為を想像した時点で舌が灰汁だらけになってしまい、想像がギブアップを宣言してしまうくらいに自分が男性であるということを自覚しているからなのだろう。

ようやく本筋の本題。 erasure と PET SHOP BOYS に対するインプレッションの差を具体的に表すとすれば、それはセックスが結びつくか否かという二分。 erasure はゲイがすなるところのセックスなるものに真剣に取り組んでいるように思える。もちろんそれは相思相愛という前提でのセックスなのだろう。年老いても内と外を完全に切り離した世界の中でセックスを続けているように思える。 「異様」 というのではなく、お互いの中に当然のようにセックスがあるような生理とでもいえばいいのだろうか。

一方 PET SHOP BOYS はパレードで楽しく練り歩いてそうな雰囲気か。せいぜい一緒に風呂に入って、じゃれ合っている程度というか。哀しみがあったとしても、それは同じソファの上で一緒に映画を見ながら同じタイミングで涙を流しているようなもので。ある意味、オープンにすることで周囲にもそれを自然と納得させてしまいそうな、刹那な自然すら感じる。少なくとも宿根草ではない。別れの涙は哀歌になるけれども、そこにゲイカップルである特殊性があまり見えてこない。分泌物以前に臭いを完璧にカムフラージュしている。

そのイメージの差は単に音作りの差であって、「エレポップ」 という枠でくくられる 2 大ユニットの差が、これまで聞き込んでいた印象以上に大きかったという事実に今さら気がついたということの現れでもある。単にそれを言いたいがために、ゲイカップルの話を自分の勝手な思いこみだけで持ち込んでしまって大変申し訳ない。見ず知らずの方に、先に謝っておく。

ところで宇多田ヒカルの最新アルバムは、日本ではきわめて希な 「自然なエレポップ」 だと思っている。エレポップというジャンル自体が、もしかしたら性なんてものを軽く笑い飛ばしてしまうのかもしれない。もちろんそれは恐ろしく短絡的な思いではあるが。博愛主義への糸口をつかんだとも見える宇多田ヒカルの新譜を聴いていると、もしかしたら上述の乱暴な流れも、数パーセントの事実やら共感を得る要素くらいは含まれているのかもしれないと思えてくる。世界においては当然が多数存在する、とでも言えばいいのか。

いや、全てが全て、単なる思いこみに過ぎないわけだが。

ref.
Nightbird / erasure (2005)