2006年08月17日

音にすがる

高校時代からの友人と交わすメッセンジャー。こちら側に座っていた自分はすっかり酔いにやられ、話の詳細は忘れてしまった。ただ、彼の言葉は覚えている。

「佐野元春と浜田省吾を追いかけてみたい」

訊くと、両者とも1、2曲の代表曲しか思い浮かばないという。80年代から今に至るまで、表舞台に出てきた音楽であれば一通り、いや、人並みレベルをはるかに超えるボリュームで接している彼がそう言うのだ。

くるりのベストアルバムも聴いてみたい」

そうとも語った。音として、現象として、己の耳が与える素直な印象として、たとえ今はそれを理解できなくとも、いつとも知れぬいつか何かのきっかけで耳に入り込んできた時、過去に耳がそれを経験していたか否かによって、自分に与えるだろう印象のギャップについて彼は述べていたように思う。そしてそれは、もちろんお互いの経験則でもある。

言い換えるとこうだ。知らずにいることが悔しい。悔しがることを恐れるから、追いかけようとする。せめて追体験でもいいから、それを分析しようとする。

先日、クラムボンのカバーアルバムを聴いた。もう10年以上、そのタイトルだけは何度も何度も見かけた 「サマーヌード」 という曲が収録されていた。自ら眠りに引きずり込ませるための薬を飲み、心の準備も十分なベッドの上でそちらへと吸い込まれそうになっていた瞬間にやってきた緩いフレーズが、意識をこちらに引き戻した。

何度も見てきたはずの、そしてそれを見るたびにきっと同じようなノスタルジーとやらに襲われるのだろう、そんな普遍に過ぎる光景と感情を胸に圧し与え、曲が終わった。原曲を聴きたい。その欲だけを残し、意識は次の朝に移動させられた。

しばらくしてオリジナルを聴く機会に恵まれた。それを知らずにいた自分が、素直に悔しがった。だからこそ、そうとは明言しなかった友人の思いを 「悔しい」 という言葉で勝手に代弁したのだ。とにかく、正直に、悔しい。せめて通りすがってさえいれば、耳をすり抜けていただけでも 「その時に引っかからなかっただけだ」 という言い訳が成立していたはずなのだ。

なんてあさましくくだらないプライドなんだろう。それほどまでに僕らは音楽というものを置き去りにできずにいる。それにしがみつき続けたい、すがり続けたいと思っている。神の袖を引き、何度でも乞う最後の願い、出し続ける最後の切り札にはこう書かれている。

「せめて音楽だけは」

自分を取り巻く現実には 100% すがれる確実な物体がない、事象がない、人がいない。自分の心ですら自分でコントロールすることを放棄してしまっている。それならばせめて、数分間の繰り返しを数時間にも数日にも数年にも変えてくれる確実な音を取り込みたいという貪欲な願いは、決して後ろ指さされるものではないだろう。

そんなちっぽけなものにしかすがりようがなく、そんなちっぽけな欲で満たさせる一つの、そして動かしようのない器が自分の中にある。その中に湧く水を枯らさぬようにとあたふたするみみっちい努力を、笑いたいなら好きなだけ笑ってくれていい。 No music, no life. そんな軽口をたたける余裕のある日々は、振り返った先の影ですらあやしい。音に手綱を取ってもらうべく、鞍の乗り手をいつまでもいつまでも僕らは捜し続けている。いつかそのリミットがやってくることを恐れながら、それでも捜し続けようとしている。