
2 軍落ちして久しい CD 群を、まとめて amazon に放流した。十枚程度の中から、早速一枚が売れた。どうも出品待ちの予約をしていたようだ。他の商品に買い手がつくのを待ってみたが、動きが鈍いのでとりあえず発送。クロネコメール便を使ってみた。コンビニの店員さんも初めてのようで、マニュアルシートと照らし合わせながらの作業だった。 110g 程度で 160 円。郵便に比べて 40 円安いし、伝票に記載されている問い合せ番号等の安心感からしても、郵便よりはクロネコだ。蓄積され開発され続けてきたサービスというのは、何気ないところでの安心感につながるのだ。企業努力ないところにサービスなし。がんばれ郵政公社。
ただしメール便といっても安心してはいけない。佐川急便のメール便は、集荷こそ佐川急便が担当するが、配送に関しては下請け業者に投げてしまうので、その業者の質によっては、遅延、不達の発生はざら。一ヶ月近く経ってから 「転居先不明」 で戻ってくるなど、ありえない。大量発送の顧客サイドだったことのある自分がいうのだから間違いない。
霊安室に置かれていた CD も、どの CD に需要があるかなんてなかなか見当どおりにはいかないものだ。いの一番に売れたものは、数年前の夜中に放送されていたアニメのサントラ。深夜アニメがドル箱産業にのし上がる直前の時期に放映されていた。三文小説な音になるはずのサントラを、目の付け所を若干切り替えることによって、やや目線の高い製品にしたという意味で、手抜きが感じられずに面白かった。が、サントラ以上でも以下でもないので、最終的には霊安室送り。トータルで 10 回も聴かなかったポリカーボネイトとアルミ箔製の板が、定価の半値で売られていくなら出来過ぎだ。発送前に聞き返すことも、コピーを手元に残すこともなく封筒に放り込んだ。
コンビニからの帰り道すがら、 CD ショップに立ち寄り UTADA の新譜をつまみ聴きする。先日のテレビ番組で披露されていた曲は、ボーカルとトラックとのミックスがうまくなかったことがわかる。曲自体は、非常に宇多田的だ。ライブでも感じたが、マイクを通して刹那に届けられる宇多田の声は、音に埋もれやすい細さを持つものなのだ。せっかくなら放送時にはそれなりの気遣いが欲しかった。他の曲を聴いて思ったのが、コンテンポラリーと呼ばれる洋物が、いかにイロモノな音源を平気な顔をして使っているか、ということだ。もちろん、マイケル・ジャクソンの当時のはやり歌だって、今だからこそ気にならないが、当時なら斬新と異端さが紙一重の音が埋め込まれてたのは事実だろうし。
散々聴き慣らされていた宇多田ヒカルの曲は、日本の耳を意識して作られてきたものなのだから、いかに 「向こうテイスト」 な雰囲気が輸入されていたとしても、日本語の文脈に全ては落ち着いていたのだ。その落ち着いていた音をゼロから洋物として作り直すのであれば、これはやはり別人の仕事と言わざるを得ない。トラックに使われていたあの気持ちの悪い音は、自分にとっては慣れるまでに時間がかかるだろうし、洋物コンテンポラリに慣れようとする努力は僕の中にそもそも存在しない。
よって UTADA デビュー作は話の種になりうる可能性は否定できないが、それを延々と聴き続けることができるだろうか、となると正直疑問だ。とりあえず何らかの形で通して聴きたいとは思う。宇多田ヒカル音源で流れていた奇妙な音は、邦楽トラックにおいては何ら異端ではなかったことを裏付けるのにはいい材料になるんだろう。また、宇多田ヒカルが書くメロディは、ポップスコンテキストにおいてひねくり回される類のものではなく、日本語をのせるにおいて非常に気持ちのよい、言うならば 「八分音符で作られた音楽」 と小馬鹿にされたデビュー当初の槇原敬之のようなシンプルさが一つの肝だったことにも気がつくかもしれない。

いずれにせよ、今日はまだ自分の部屋では何も聴いていない。気が向いたら聴くのもよいかもしれない。そういえば昨日のこと、近くのショップに売り飛ばしてきた過去の CD シングルたちは、そのうち何か一枚のアルバムくらいには変換してやってもいい。それは、やはり手放す直前に聞き返すこともなかった詫びも兼ねてのことだろう。どういう風の女々しさだ。