2004年05月23日

(オマエもこの気持良さにやられちまいな) 止マッテタマッカ -DLRMX- / Lunch Time Speax (2001)

「何かをしてみようとか、漠然とでもいいからスタイルを描こうとか、してみたことある?」

同じ口から何度も聞いた、その質問にはすっかり飽きた。そして訊ねられるたびに、ふて腐れて否定する自分に嫌気がさし、そして何も持ち合わせていない事実への生ぬるい不安に覆われて汗をかく。思考停止状態になっているわけではなく、どこを振っても何も出てこない。誰もがその名前を知る巨大な企業の、その巨大な本社ビルの傍らで、たたでさえ小さな身体をちぢこませて呆然と立つ。

慌ただしげにトラックの荷台から荷物を下ろしている、運送業者のボーダーシャツが快活に目に映り、三十分前の自分の軽さとの対比に、また目眩を持ち込む。

責めているわけではないのだろう。が、この歳にしてビジョンなるものの欠片も持たないことは、人として生きることの何かを放棄しているような気にさせられる。それはどこで植え付けられた強迫観念なのか。それとも、コンクリート過多に陥った東京の一部が、当り前だという顔をして終日送り込んでいる可聴電波か。

空虚といえるほどに病んでいるわけではなく、与えられ過ぎたゆえに、不感症になってしまったその結果が今の自分だということは、痛いほど自覚している。自覚の中で何か無いだろうかと探し渡り歩いた。そしてたどり着いた土地を離れた途端に、次から次へと忘れてしまっていた。歩道に面して、突然現れるエレベーターは、この足元と地下とを結ぶ。結ばれた先に広がる地下鉄の駅には三年前に散々通い詰めていたはずなのに、今日、再び訪れるまではすっかり忘れられていた。他人事なのだ。

挙げ句、他人事であることの身軽さを快感にしていた引き替えがこれだ。スタイル、プラン、ビジョン。今の地位は自分の力で勝ち取った、そう言い切ったいつかの上司の顔だけは、今でも忘れられずに時にフラッシュバックの悪心を引き起こす。つまりは、気持ち悪いものを遠ざけることだけに専念していたディケイドだったのだと。

切ることもできず、惰性で繋いでいるライフライン。その向こう側から聞こえてくる言葉は、最早記号にもなりはしない。都合のよい記号を集め歩き、都合の悪い暗号は身体につくそばからむしり捨てた。苦いものは食べられる。目に毒ならば目を伏せる。まだ路肩に止められているトラックには、もう何度もボーダーシャツが出入りして、速度制限を無視したアリのように働いて働いて、そして働いている。あのシャツが吸い込んでいるだろう汗の重さと、このワイシャツに染みこんだ汗の重さを比べるナンセンスを、否定できなくなってしまった。感傷を許してしまうほどに緩んでしまった毎日、その結果の今。

「わからない、明日からまた考えるよ。今日はもう終わりだ、おしまい!」

返事も待たずに切り捨てた言葉は、明日へのとりあえずの持ち越し。いつかの言葉に比べれば格段に進歩している。もう、がむしゃらに走り出せるほどの怖いもの知らずでもない。そもそも、がむしゃらなどという行動パターンは、はなから記録されていない。一晩頭を抱え、酒を食らい、記憶を失いながら傍迷惑な言葉をばらまき、また再び頭を抱えて朝を迎える。それでもまだ、循環式の中でいつまでも大きくなれない拙い汗を流そうとしているうちは、足元とお天道様の寿命とともに、何もないなりのカウントダウンに参加することができる。

ああ、明日は今日とは異なるか。最早、変わることに足がすくむか。それでもへばりつけない、投げ出せない。足元をロックするフラップに転び、軟らかな土に骨抜きにされ、ウダウダした後に再び忘れて先に進む。毎日を迎えるこの土は気持ちがよすぎる。蒸し上がっている毎日に煮詰まり尽くしたら、次の呼び水を求めてウロウロするしかない。それならば止まれない。ナメクジだろうとカタツムリだろうと干涸らびてしまうまでは止まれない。臆病者は止まらせてすらもらえない。

cf.
Lunch Time Speax "Blue Print Maneuver" P:2000