二日連続で夜中に首都高を走らせることに。 BGM として愛用したのは ZABADAK 。以前レンタルしていた、上野洋子時代のベストアルバムを MD に落として車に積んでみたところ、これが非常にいい。気持ちよさの最大の所までボリュームを上げると、闘争本能がどんどんと引き出されるような、非常に不思議な状況に。
ヒーリング系音楽としてカテゴライズされていたことの多い ZABADAK だからこそ、脳に働きかけるという点では、癒しも興奮もそれほど大差あるものではなく、隣の歯の痛みに共振して錯覚させられた痛みのような、そういった近いレベルでの緊迫感が、このユニットにはあったのではないか、などと、今さらのように考えてみたり。
吉良知彦のクセあるボーカルには土着の精が宿り、上野洋子のボーカルには降り積もる大気の精が宿り、とか。まぁ、 ZABADAK ファンにありがちな空想力を駆使すると、こんな感じになるのではないか、とか。
音楽を生み出す行為となる源の一つには、天と地に支配され、そこから委ねられた人間が生みだした、あらゆる自然に対する、憧憬や畏怖、そして感謝といった念があり、だからこそ局地限定形の、非常にトライバルな楽曲、旋律、リズムが作られてゆくわけであって。その局地とは、土地という空間でもあり、個人という移動する空間でもあり、同時に、共振する対象となる音楽も、当然の事ながら個々異なるわけで。
ZABADAK の場合、同時に、この日本という 「島」 の特性からすると、大陸が持つプレートレベルでの回帰、いうならば大陸の万有引力が引き起こした必然的な音楽である、とか。トライバルが集約的だとしたら、エスニックは漠然とした 「型」 でもあって、トライバルに攻めようとしたら、必然的にエスニックなレベルがそれを含み、 「なんとなく異国的」 という、非常におおざっぱな印象にもつながるわけでもあり。もちろん、その印象も間違いではなく、正解であって。また、使われている楽器のその起源が大陸であることを考えると、彼らの遺伝が導く音色は必然的にコンチネンタルなものだったり、とか。ああ、 4/4 拍子はさながら十字軍のように地球を蹂躙してしまったのだろうか、とか。
とか、まぁ、首都高走りながら、ちょっとそんな下らないことを考えてみたりしたですよ。