the pillows をさかのぼりはじめたところ。ちょっと前に図書館で借りた数年前のアルバムは THE SHAMROCK 風のシティポップスで、今さら感あふれていてどうにもこうにも聴く気にならなかったので、今回はそのギリギリの時期までさかのぼろうという、ちょっとしたギャンブル。うっかりシティポップスラインに突入しちゃったら、僕の 300 円が無駄。
シティポップスなんてふざけた言葉、意図的ですが。
それとは関係なしに、いや、少しだけあるのだが J-POP などという戯言を語る際の禁じ手について考えてみた。
意外なのは 「アーティストを語る ≠ アルバムを語る」 という考え方が思ったよりも一般的ではないと言うこと。アーティストという文脈に則った上でないと 1 枚のアルバムを語れないのであれば、それは比較論でしか音を語れない、論者自身の審美眼までをも疑われる行為となる。自殺行為だ。最初からやらない方がいい。
実際のところセールスを左右する大きなファクターが 「アーティスト」 である以上、これを避けて語ることはそう簡単ではない。この要素こそが世間一般の法則だ。だがミュージシャンの創作物という作品を論じようとする時点で、既に論者はこの世間という枠を逸しはじめていることを自覚すべきだ。 「アーティスト = アルバム」 という頭でのみ字数を費やす通り一辺倒な視点では、文章という上面は異なれども、その論旨は、同じ作品を手にした、同じ作品を取り上げようとする、全く同じ考えの他者と何ら変わるところがない。もちろんそれもまたアリなのだが、音を文字に置き換える時点で、それがいかに特殊な作業であるかを自覚した方が、むしろより音、作品に対する多面的なチャンネルを獲得でき、作品もより一層楽しめるというものだろうが。ちなみにここでいうところの 「楽しむ」 とは 「良い音楽を鑑賞する」 に等しいことは意味しない。
アーティストという個を取り上げることだけに没入し、アルバムないし楽曲という単位を語るのができないならば、端からアルバムレビューなどしない方がよいのだ。
他者比較はもっての他なのだが、これを禁じてしまうと途端に論旨の具体性が失せてしまうような悲惨なアーティストも数多存在するので、これはある程度までは黙視しておこう。が、限定できる他者比較でのみ、被対象となるアーティストをこき下ろすケースは明らかに反則技だ。多く見られるのは、音楽的に類似しておりある程度の評価も得ている他アーティストに対して比較させ、いかに負けどころが多いかを漁る最悪な比較だ。
「論じる上での禁じ手」 の類をなぞっているだけで、何ら真新しいことは述べていないコメントではあるけれども、逆にそれだけ当然のことを無視した上で論じようとするケースも数多く見られるわけだ。それがちょっと目に余っただけ。
と、きっぱり言い切れればかっこいいんだけどな。