2001年01月05日

TMGE106 / thee michelle gun elephant (2000)

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thee michelle gun elephant (以下 TMGE )のベスト盤をレンタルする。アーティストの意志とは離れた部分でのリリースとのことだが、そんなことはどうでもいい。ただ、久しくこのバンドを聴いていなかったなと、自分に対して思い知らせるくらいの効果はあるわけだし。

「轟音」 なんて表現をわざわざ用いる必要もない程、ロックがラウドであるのは当たり前になっていた。ほんの数年で。それ以前からもインディーズシーンでは飽和感を存分に満足させるようなギターサウンドは珍しくもないことだったとしても、少なくともその辺のチマい CD ショップの棚にも並んでいる光景は、このサウンドが一般的な認知にまで及んだという事実を充分に語っている。

ただその中で割と早い時期から表に出てきた TMGE は、後のパンク、スカコア、メロコア、エモコア (もうなんでもいい) シーンからすると、どうしても影が薄くなってしまったような気がしてならない。おそらく後者群が T シャツという外見からスタートしたことと、 TMGE がスーツスタイルからスタートしたという、そんなどうでもいいような違いが、最終的に大きな差をもたらしてしまったんだろうかなと。

悲哀への感度の高さもインテリジェンスの一環であるとするならば、そのインテリジェントな TMGE サウンドは、そこに共感する者同士の閉塞を招いてしまったのかもしれない。カジュアルであることは、同時に間口の広さを招き、意味もなく、そして意味を考えることもなく感度も決して高くはないという層に浸透してしまうという事実もある。それでなくても成功ないし模索を要求される先駆者が、後発組の成功する前に、もしくは成功とともに叩かれてしまうか無視されてしまうか力尽きてしまうようなことは、下らないくらいに繰り返されている歴史であって。

先の T シャツとスーツの差は、喚起された感情、もしくは創作された感覚に言語という外套をまとわせてメロディにのせるか、それとも装飾しない言葉をもってしてメロディに感情をのせるかという、随分と極端な精神論にまで及んでもおかしくなさそうな違いなのではないだろうか? おおよそ T シャツ組は充分にインテリジェンスでありながら、英語ないし文語に走り、必要もない共感層までも作り出してしまったのは事実なのだから。

スーツ組の TMGE の単語はおおよそライトウェイトで、言葉として並んだときにはその軽さが途端に虚ろな感情として像を結ぶ。虚ろである所にこのサウンドを乗せた相乗効果を突き詰めると、きっと後にも先にも、少なくとも自分にとっては 「世界の終わり」 なのだろうと思わせる。

「紅茶飲み干して 君は静かに待つ」

自分が終わるまでの数時間があるとしたら何をするだろうかなどと、誰が TMGE のサウンドだけを与えられたとしても想像しうるだろうか。何をするかという行動には言葉が必要になる。言葉というラベルが与えられていない行動もまたあり得ない。音楽は言葉の助力を受けて、何かを招くこともある。もちろんその逆もまた真ではあるが。行動をするにあたり、他を招かない孤を選択できるのであれば、きっとそれは TMGE の一つの解釈であり、具現化ともいえるのだろうし。

cf.
thee michelle gun elephant "TMGE106" P:2000