amazon のカスタマーレビューを眺め、 「オザケン」 の作ってきた過去はセンチメンタリズムの肥だめとして過剰なまでに作用するのだなと思った次第。思い入れの強さが、思い入れを呼んでくれたアーティストの判断に自らの願望を押しつけることにつながるのか。それがファン心理なのか、仮想記憶のオーバーレイが引き起こすありふれすぎた現象の一端とでもいうのか。ちょっと吐きそう。
言い換えると、あの時の輝きに今でも耳を奪われ続けている人が、耳のみならず感情までも奪われてしまっているということか。それが小沢健二の魅力の一端なのか何なのか。当時、時間を一方的に止められたファンの気持ちが、このアルバムに対して集約どころか殺到、非を許さない完璧な是を期す心理もわからないでもないけど。俺、そういうのダメなんだわ。
で、アルバム以外の小沢健二に全く興味がなかった身としては、とっても気持ちの良いアルバム、流れ。小沢健二の手癖・カタログが、重複なく、かつスムースに収められているものだから、これがなかなか何杯でもいける。今日日のシングル集にありがちな冗長性がないからこそ、集中して楽しめる味があるわけで。どれをとっても小沢健二であって、どのパーツにもあのキラメキや酸っぱさやちょっとした背中の丸さがあって、なかなかに切ない。 「僕の知らなかった小沢健二」 がやっぱりどこまでも小沢健二だったことが発見できる、それだけでも十分に高い機能性を持つアルバムだと思うのだ。
だから、時間を止められてしまった不幸は不幸と割り切って、聴けば必然的にあの時間に戻ってしまい、そしてそこから今までの人生すら凝縮してさらけだされてしまうような、小沢健二ならではのタイムカプセル的恥ずかしさを堪能しようよ。こんな素晴らしい贈り物を、開けずして受け取り拒否するのはもったいない。気づけば何年もピザなんて広げたことのないテーブルの上に宅配ピザを乗せて、ビールで一気に流し込んだりしながら楽しんじゃおうよ。ま、それはそれで相当恥ずかしいんだけどさ。
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ところで小沢健二の音は、故青木達之の音があってこそなのだなと改めて実感。 『犬は吠えるがキャラバンは進む』 にこのドラムがなかったら、僕が小沢健二のソロワークスに興味を持つことはなかった。断言。このスネアの音は暖かくてウェットでちょっと寂しい。
cf.
小沢健二 "刹那" P:2003