2001年06月15日

酸欠点景

二月弱のブランクをおいて泳ぎに出掛けた。いつもの半分も泳ぎきらないうちに体はへたばってしまう。早くにプールを後にする。霧雨の夕暮時、倉庫街を巡る幅広の通りでは、ターミナルへ戻ろうとするトラックが順番待ちに左車線を埋め尽くす。場違いに赤い車の中では奥田民生が流れる。

人生の暇 (いとま) は憧れるだけで充分であり、いざそこへ身をおくとなると、ただただ途方に暮れてしまう。自由という時間設定の危うさを無意識に知るからこそ、人は現実のメインストリートを選ぶ。飄々と歌い上げる左腕の対にあるのは、それ相応のリスクという右腕。酸欠気味の頭で、やけに高い位置にあるテールランプを見るとはなしに見上げながら、ただ追突だけを免れるために運転を続ける。

帰り着くと、夜と言うには充分な時刻になっている。用意された夕食を収めると、何を考えるでもなく目に入った AJICO を手に取る。床に転がり少しまどろむ。たとえ協調性を持たない音同士であっても、音が重なった時点で全ては和音。それでも不協和音は消えてなくならない、音の理不尽。音は時代とともに整理され、そして整理されすぎたゆえに、見てくれの悪い隙間を埋めていこうとする。もしくは生じてしまう隙間を、恥の空間と勘違いしてしまうのだろうか。

気がつくと、和音と不協和音以外に鳴っている音は全て隙間であり、合間の中に音がいる。広場に点在する目的物を探し出すのに苦労は必要としない。必要としない苦労を背負い込むこともまた無益。輪舞というには現代的で、セッションとくくってしまうには粗暴が過ぎる。ただ点在する音だけを拾い集めていけばいい。その時々の気分とともに。

cf.
AJICO "深緑" P:2001
奥田民生 "CAR SONGS OF THE YEARS" P:2001