このところめっきり酒量も減って、友人に頼んでまで買ってもらった 2 本のハーパー 101 プルーフも、 1 本は封を切られずに眠っている状態。それでもたまにはちょっとショットグラスを持ち出して、チェイサーを傍らにストレートでチビチビといきたくなるもの。アルコールが回ってくれば、耳は音数の少ない音楽を求める。ということで、昨夜は吉田兄弟。
本日。頼まれついでに立ち寄った酒屋で二鍋頭に遭遇。友人の推薦で入った中華料理店で初めて口にしたそれは、コーリャンを原材料にした中国の蒸留酒。ジンにも似た飲み口と、カラダに広がるバーボンのような熱は病みつきになる。酒屋を回った足で CD 屋に向かうと、先日から気になっていた上妻宏光の CD も見つけてしまう始末。ペリエを傍らに二鍋頭をチビチビと、そしてこの CD を小音量で。
津軽三味線という楽器は、その存在自体が自分にとっては充分にエキサイティングなもの。楽器が持つ定番曲のレパートリーは、歴史の浅さに比例してか決して多いとは言えないものの、それ故に奏者間の技量を浮き彫りにする、すなわち楽器が奏者を選定するという側面があり、興味は尽きない。しかし楽曲が少ないが故に、津軽三味線奏者のディスクが増えるに従って自ずと収録される曲目が重複してしまうという弊害もある。そして何よりも、年々技術が向上されていくという現状に即して、その差を見抜くほどの力量が比例的に聴き手には備わっているのだろうかという疑問もある。まずは自問ではあるが。
そして上妻宏光。津軽三味線というワンアンドオンリーなカテゴリならではの恩恵を受けていた音楽が、一般フィールドにおける耳にさらされた段階でどのように判断されるのか、サードパーティーであるリスナーに訴えかけるための手法はいかなるものであるか、ここに一つの鏡が提示されている。
定番曲はもちろんのこと、創作曲における正確な BPM に乗せられたキックドラムに入り込むタイミング一つ取っても、聴き手にとって 「ここで津軽三味線が入ってくるのだろう」 という絶妙なタイミングをつかんでしっかりとメロディが入ってくる。正に、痒きに手が届く快感。リズムにおいてもメロディにおいても、形がないともいえる基礎に乗じたアドリブとインプロビゼーションを全てとする津軽三味線と、規律あるシークエンスとが見せるシンクロ。ここに津軽三味線の持つ「揺るぎ」において、その繊細性を表現することに長けている奏者であることが明確に映し出されている。聞き流せずに、耳が捉われてしまう B.G.M. という点では、まったくもって文句のつけようがない。しかし残念なことに、曲構成、もしくは伴奏という意味でのバックトラックが、及第点レベルで終わっているように思えてならないのはいかがなものだろうか。
津軽三味線 = 心象風景という考えを持つ自分にとっては、 (いわゆる 「ミニマムなトランス」 と区別して) シンセが作り出す白玉を背景としたマインドトランス的要素を持ち込んだこのアルバムの着眼点にはなるほど納得させられる。津軽三味線を上乗せするための手法としては、確かに目新しい切り口であるといってもいいのだろう。
しかしながら、トランスもイージーリスニングもかつてのニューエイジもクラシックも、何もかもが 「ヒーリング」 という単語に置き換えられている現状においては、このマインドトランス的手法は 「ENIGMA 的ヒーリング手法」 といってしまえばそれまでなのだ。何よりも皮肉なことに、この CD の帯には 「純邦楽/ニューエイジ」 と記されている。なんという墓穴。
元ネタが容易であればあるほど、音楽は普遍性を持って、広い間口を得るというメリットが成立する。しかしながら、どうせ静謐であることから饒舌過ぎる程にくどく展開して飽和へと導くマインドトランス風に仕立て上げるのであれば、楽曲単位での充分な長さも必要であったと思えるのだが。特に tr.3 においては、津軽三味線ソロの呼び水、そしてギターで言うところのチョーキング、そして半音を生かしたメロディといい、強力な吸引力を持っている。だがそれゆえに、器から振り切れ、零れた水の行き先をたどるための混乱が足りないように思えてならないのだ。 「ここからが面白い」 というポイント、フェイドアウトされる 3分 55 秒からの大風呂敷こそが、このアルバムのメイン足り得たのではないだろうか。しかし現実はどうかといえば、そこまででようやく引込まれた気分の行き先もつかめずに不満げな顔だけが残されてしまうハメになる。
混迷を極めれば極める程に満足感を得ることの出来る音楽はいくらでも存在すると同時に、そのためには冗長に終わらせない編曲力の高さが同時に要求される。ここにあと一歩の踏み込みがあってもよかったのではないだろうか。曲構成がポテンシャルとしての技量についていかないというのでは、あまりにも口惜しい。
ではソロならば問題はないかというと、これまた勿体ないことに録音が上品すぎるきらいがある。手前方向に今一歩、張り出してくる音が欲しい。ホールで聞く実際の津軽三味線の音は、文字通り耳に痛いくらいに前面へと突き出てくる。間合いの計り方において繊細であるこの奏者と録音技術とのシンクロ性に、プラスアルファの要求を出したいところなのだがいかがなものだろう。
結果 「悪くはない、悪くはない」 という言葉を並べて後に 「じゃぁ、まぁこのままリピートしてもいいかな」 というところに落ち着いてしまう。それはそれで一つの成功例と言えるのだろうが、成し遂げられなかった向う側、その先へと手が届くところに、あるべき実像が存在しそうだからこそ、わずかな淀みが手元に残ってしまうのだ。
と、ご託を並べていい気になりながらも、二鍋頭は着々と身体に取り込まれていき、結局はマインドトランスと心象風景のされるがままになっているのである。 2 時に寝るはずがもう 4 時。 「今日のめあて」 もへったくれもない。アップロードまでにもう一杯干してからぐっすりと眠ることにしよう。