その日。朝から降っていた雨は、昼過ぎに止んだ。あれは秋だったから、たぶん冷たい雨だったような。昼休みにはまだ雨は絶望的に激しくて、近くの店へと食べに出るも、肩と、膝から先はぐっしょりと濡れてしまった日。久しぶりのワイシャツが首を締め付け、騒然とした不慣れなオフィスで、あり得ない納期の仕事に追われて、その緊張感が一気に解けるような夕方。どこにあるのか、窓からは茜色の陽光が入り込んでいた。どこかの国が防ぎようのないテロに遭い、この国のとあるビルでも ID のチェックが行われていた、そんな時。机に放り投げていた ID カードと小銭入れを握って、エレベータを下りる。そろそろ顔見知りになった守衛に頭を下げて、回転ドアを押す。突如、高速で走り抜けるトラックのロードノイズが頭上から降り注ぎ、その道路を囲うようにして並ぶ窓ガラスに跳ね返った音が、無作為なホワイトノイズを作り出して、身体の周りを包み込む、そんな街中。ドアから数十歩先にぽつんと建つ売店で缶紅茶を買い、さらに十数歩にある地下鉄の出入り口正面に植えられた桜の下、ベンチらしきコンクリートに座り込む。スチール缶特有の少し固いプルタブに力を入れ、閉じこめれていた缶の中に、街を埋めるあらゆる空気を流し込み、呼吸させる。エスカレータは数分おきに人を上げ、ひっきりしなしに人を下げていく。設計図の細部まで再現された骨格とガラスのオブジェと地下鉄の出入り口は同じ記号を持ち、ガラスの向こうに見える隣のビルと空は、わずか数日のつき合いでお気に入りの光景になっていた。無言で進められる作業に息が詰まり、缶に空気が蓄えられれば蓄えられるほどに、またそこへ戻らなくてはならない時間がやってくる。それは希望する形の一つであったはずが、実現されてしまえば、薄皮で緩くくるまれていた理想像なんてものはあっさりと失われてしまう。時間から逃げる感動を味わうまでの余裕もなく、気体に満たされた缶をごみ箱に投げ込み、また ID カードを見せに戻った。ただそれだけの、とあるその日。
cf.
坂本真綾 "紅茶" P:2001