女性の一人称的にして物を見てみようとすると、どうもステレオタイプが過ぎていかんなと思いつつも、ホスピタルブルー(造語)や レイニーブルー(徳永) だったからか、中途半端な時間に帰宅して再び出勤するタイムスケジュールだったからか、何年も保留になっていた REBECCA のアルバムを聴こうか聴くまいか悩みつつ 「こんな天気の悪い日に、電車に乗っている人間なんていない」 というわけのわからない理屈に後押しされて、久しぶりにカバンに CD ウォークマンを突っ込んで出勤。で、黄色い JR ではまさかのスタンディングブルーで(造語)カバンが重い。だから MD ウォークマン生活にしていたのに。
最初の話に戻す。
REBECCA を引っ張り出して、どう考えてもこの 1枚 だけでは往復で 3回 は聴く羽目になるだろうからということで、 CDラックのやけに微妙なところに突っ込んであった相川七瀬を持っていくことに。
女性の一人称視点を作ろうとする時のステレオタイプな情が正しいのかどうか、なんてことを何となく考えてみようと。もっちりとした生ぬるさとでもいうのだろうか、ヌルッとした感じ。性的な潤いというのではなくて、内壁をなでていくような感覚。
『もしかしたら 「感覚的な感覚」 とでもいうのかな』 などとも思ってみるのだが、わからない。自分はどうあがいたって男だし。 REBECCA なんかで切り口を探そうとするからいけないのかとも思いつつも 「可愛憎らしい自分が可愛い」 という部分に訴えかけるステレオタイプなイメージをさぐるにはうってつけなサンプルだと思われる。サンプルたり得るということはそれだけわかりやすい(錯覚)ということで、それならば手が届くかもしれないという思いから、結局は自分の想像の中でのみ型に押し込めて像を結ばせようとしているのかもしれない。
創作は想像の範疇を超えた時にこそ、自分自身が心底楽しめるのだと思うのだけど、性を超えた部分で内から見ようとすること自体、それはものすごい労力と勘違いが必要とされるのかもしれん。
複々線区間を併走する快速列車を見送りつつも、薄ぼんやりとした思考の中で視線を落とすと、当然そこには車内の床がある。この床に何か水ではなく、油のような、透明なペンキのような液体を落として、界面を活性化させる掌でなで上げたところに、何かしらの色が跡として浮き出てくると、自分が考えている内容に近づくのかもしれない。少なくとも数年前に書き留めておいたようなメモでは使い物にならない。
そういえば韓国の儒教徒 (それをいうならば日本人はみな全部仏教徒か) は女性同士でも手をつないで街中を歩くという話をどこかで見た気がするのだが、手をつなぐという物理的共有から、何かスピリチュアルなものが相互に交換されて解け合い、それが完全にエクスチェンジされきったところで、元来自分の中にあった姿が再び戻ってくるような構図というのは、自分がなんとなく形にしたがっている 「内壁を塗る」 というところに、何か細くつながっていくような気がしはじめた。近い他者を使って自分の中を撫でる様子。
相川七瀬は織田哲郎が詞を書いているのでどうにもならん。とりあえずヒット曲のドライな歌詞に対し 「これなら男がカラオケで歌ってもおかしくはなかろう」 と再確認に至ったのみ。久宝留理子が 『「男」』 と歌い上げたのに対し、相川七瀬の場合は 『夢見る少女じゃいられない』 であって、男性(視点)的女性(像)幻想理想がそこには入っているのがわかる。 『夢見る少女』 なんて真顔で言うバカ少女がどこの世界にいるんだ。それは バージンブルー(SALLY) 。 それともこのブルー? 案外このブルー? もといこのブルー? じつはこのプルー?
cf.
相川七瀬 "Red" P:1996
REBECCA "POISON" P:1987