2003年12月31日

CHOPIN : 24 ETUDES / Maurizio Pollini

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カザルスのそれのように、ポリーニのこの演奏も名演とされるもの、らしい。鍵盤の上を指が動いていく様を想像しながら聴くのは楽しい。

邪魔の入らない、予想外な位置からの音がない独奏は、一切の危険を感じない、ある種の絶対的な安全の中に自分が位置しているような気持ちになれる。個人が全ての責任を負う演奏において、聴き手である自分はその一人だけに意識を向けていればよいので、音に心を任せるという意味では非常に都合がいい。

譜面上では数としてカウントされない、殺されてしまう音までをも端正に整え、自分が鍵盤を叩いたのであればまず鑑賞に堪えることのないだろう不協和音が、音として生を受ける。

クラシックが抵抗なく耳に入ってくるようになったのは、自分の想像力の成長によるところも大きいはずだ。音から拡げることのできる想像・妄想のキャパシティの豊かさに、気持ちよく耳を投じることができる。音を追おうとする疲労系の集中力とは全く異なる、期待感に満ちた音のトレースができるようになった。

聴覚と、音から構成される仮想の視覚を、言語としてどのように解釈し直すかに集中できる楽しみは、他ではなかなか味わえるものではなかった。音を技術としてとらえ、そこから理屈をこねることがいかに幼い自慰行為であるかと、こっぴどく説教されたかのような気にすらなってくる。

音の分析においてレトリックを徒に駆使することではなく、なぜ自分がその音を聴こうとするのかという自己分析へと向かう視点。クラシックには音に対する意識の転換方法、転換させる要素がたっぷりと含まれていることを感じた。ジャンル至上主義 (排他主義) の音楽好きに対する牽制球を放る方法も、少しずつ見えてくるようになった。そんなことを言っているうちは、まだまだだということも承知の上で、その 「まだまだ」 を埋めていく余白に何が組み込まれていくかを楽しめるようになったことが、 2003 年最大の収穫になった。

最後に 「ショパン」 という名前に対して、勝手に抱いていた 「甘そう」 というイメージを、僕好みのものとして誤解を解いてくれるこの演奏を教えてくださった方に深く感謝します。どうもありがとう。

cf.
CHOPIN : 24 ETUDES / Maurizio Pollini
(ショパン:12の練習曲 作品10・作品25 / ポリーニ)