これを受け入れられるか否かというのは、頭を空っぽに出来るかどうかということなのかな、などと考えてみても、正当化するにはちと苦しいかな。
でも。メッセージ性の欠如を理由に 「日本の Hip-Hop は空洞的だ。そこには何もない」 と、通り一辺倒に斬り捨てる輩も、基本的に何も考えていないだけだ。そういう輩がいまだに存在していることが驚き。
音楽を輸入することはあっても、それを文化として完璧なまでに輸入することを求めるのは、ちと違うんじゃないかな。フォーマットを借りてきて、それを自分の部屋の中にキレイに収まるように調整していくのは、非常に日本人らしくて好感が持てるのだけど、それでは考えが甘いのかな? そもそも日本人の母国語は基本的に日本語なわけで。Hip-Hop (Rap) が背景に持つ人種観というのは、日本には最もそぐわない土壌であるわけで。
仮に文化として受け入れたとしよう。もしわずか数年でそうなったのだとしたら、ちょっとそれは怖いものがあるんだけど。社会的に。また、 「向こうの文化」 とは言うけれども、それは 「向こうの文化」 を見てきた目が言語に変換することで浸透させられた、何かしらがデフォルメされ、フィルタリングされた主観の一つでしかないわけで。
これは個人的な極論だけど、日本だけで生活して音楽を聴いていると、音楽に社会的なメッセージをのせること自体が、何か違うように思える。それはそれ、これはこれ。音楽は音楽として楽しもうと、その点である意味インストゥルメンタル的に楽しまれているのが、今の日本での Hip-Hop なんじゃないかな、と。それじゃダメなのかな。
日本語のリリックをいかにして耳に楽しく届けるか、雰囲気として楽しめるものを作るかということに専念しているかを、評価対象の一基準として空席にしておくくらいの心の余裕があってもいいんじゃないかな。
社会問題 (土着的な社会病理) をフロウにのせるのが向こうの土壌で文化だというのであれば、日常の無常観とええじゃないか的思考をのせるのがこちらの文化だと、そうやって胸を張って分析して受け入れていた方が、よっぽど健全だと思うのだけれども。
そういう健全さでの余裕、あそびがあるからこそ、僕は KICK THE CAN CREW が好きなのだし、毎日は毎日であってリピートではないことを理解した上でのさりげないやるせなさをホロリと演出することからも、非常に稀なテクニックの持ち主じゃないの? と常々思うわけですが。こういったポピュラリティは、そう簡単に身に付くようなスキルじゃないよ。
やっぱ甘いのかな?
cf.
KICK THE CAN CREW "magic number" P:2003