2003年01月29日

CCCD で苦しむ bloodthirsty butchers

[ CCCD]

bloodthirsty butchers が特異である理由の一つは、ボーカル吉村秀樹の音のなさにあることは間違いない。聴き手は、歌唱と咏吟とのすき間を常に補いながら聴く必要があるからね。だから、そう簡単に人には薦めない。それは、自分の音楽的インテリジェンスを誇るような矮小さが云々ということじゃなくて、音楽と聴き手が持つべき誇りを保つといった、ちょっとした良心のようなものだと思う。

なのに、これってどういうことなんだろう。



今朝は CDウォークマンに、買ったばかりのこの CD もどきを入れて出かけたのだけれども、とにかく 6曲目が飛びやすい。飛ばない時は飛ばない。再現ができないところが悔しいのだけれども。家に帰り、 MD ウォークマン用にと、MD にダビングを試みれば、 TOC が正しく送られず、 10 曲入っているものが、 2 曲にしかなっていない。

一体ホント、どうにかしてくれ、これ。

今まで、ここでも何度か書いてきたように、アンチ CCCD 派の過剰な考え方の部分には、少しばかりの抵抗感を覚えるのだけれども、でも、基本的には合意だ。なんだ、この不完全なシステムは。無粋だ。とにかく無粋だ。

ええ。音楽の中核を二次的に成しているのは、確かにビジネスだ。これは認める。では、その中核から離れた原始的な部分から訴えかけることが、果たして有効かといえば、それは無理だ。少なくとも、この国では、絶対に不可能だ。

bloodthirsty butchers の新譜を、こんなに心待ちに待っていたのに、いざ現物を店頭で手に取り、あの忌々しいマークを目にし、そして封を切るという過程において、ワクワク感が目減りしていくのを否定できなかった。ほんと、なんだ、この無粋なシステムは!

CD を買ってまで音楽を聴くという行為が嗜好であるのならば、その意欲を削ぐシステムが存在するということは、この嗜好行為そのものが否定されるということじゃないのか?

ということで、 「ミュージックマガジン」 誌の 2 月号にある、 CCCD に関する記事は必読。 CCCD の存在の背景、そしてその虚しさなど、諸々がコンパクトに整理されている。

cf.
bloodthirsty butchers "荒野ニオケル bloodthirsty butchers" P:2003 CCCD