2003年09月12日

大黒摩季と肉体的昂揚

asin:B00009WKUU:image

大黒摩季のこの高揚感は何なんだろうと思った。同様の高揚感を浜崎あゆみに感じたことはあるが、こちらは妙に傷っぽいところが肌に合わなかった。浜崎はどこかしら病んでいる。どこかに病んでいるものを抱えていることを自分の特徴とすることが一部においてステイタスになっているという某国のような、そういった煤が、情報発信側のアーティストにまで蔓延していることを意味しているのかもしれない。が、それはアーティストがアイドル (=偶像) 的パーソナリティとして背負ったサガのようなものであって、その点、大黒摩季は現実的によりアライブな感がある。

何が違っているかといえば、一人の女性としての幸せないし恋愛観を中心に歌いかけた大黒摩季には、闊歩のイメージが強く残る一方、浜崎あゆみは傷を見せ合いながらの徒党というイメージが強く残っている。浜崎が肌に合わなかったのは、傷を見せ合う趣味が自分にはないことと、病んでいる自分をアピールする趣味もないからかもしれない。

逆に言えば、浜崎あゆみはそれだけ人のセキュリティホールにがっちりと入りこむように出来ていることを意味しているのかもしれない。だとしたら、ハッピーであることを謳歌できる世の中であれば、現状における浜崎あゆみは成功し得ないということでもあるのだろう。大黒摩季的キャパシティにはもっと使いでがあって、もしかしたらもっと脚立しているのかもしれない。生きるということは道なりに体を進めて行くからこそ勝るものであって、心中に抱えるものにかまっている時間が長ければ長いほどに、シンプルに生きるということからは徐々に離れてしまうのかもしれない。 「うりゃー行くぞ」 とばかり叫ぶ躁のリバウンドによる醜さはあまり想像したくないものではあるけれども、でも実際の所は体に打ち込んだステロイド剤の効果を心にフィードバックさせることで、日常の安定というものは保たれるようにも思える。

精神的な高揚感が躁なのだとしたら、そこには高揚感ではなく悲壮感が漂ってきそうにも思える。肉体的な高揚感が躁なのだとしたら、それは快い睡眠を導く高揚感のようにも思える。真っ直ぐな大黒摩季亡き今は、精神的高揚が求められる時代ともいえるのだろうか。

cf.
大黒摩季 "complete of 大黒摩季 at the BEING studio" P:2003