2003年08月13日

FAMILY / スガシカオ (1998)

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概要
スガシカオの宅録系サウンド集大成ともいえるセカンドアルバム。この作品を発表した後、シングルのコンスタントなスマッシュヒットを経て、より聴きやすい、アプローチの広いサウンドへと変化を見せた。

ベーシストを擁していないにもかかわらず曲を盛り立てているベースラインと、アコースティックギターに重心を置いたアレンジに、スガシカオ独自のソリッドなファンクへのこだわりが現れている。アルバム中のただ一曲、ドラマーとして山木秀夫を迎えている tr.2 「ストーリー」 でのリズム割りとスネアドラムの音色は秀逸。過剰な装飾を排し、自らの感性をギリギリまでむき出しにしたどん欲さが全体的に映える。

自評
誰かと談笑をする。気心の知れている友人かもしれない、深い関係になりたい女性かもしれない、転職してしまえば音信不通になってしまうような同僚かもしれない。時折、そこで疑問に思う。この人は、どれだけ自分に対してヒリヒリしているのだろうか。それを知りたがる自分のヒリヒリは、どこまでが正解なのだろうか。

そのヒリヒリという擬態語は自己溺愛という言葉に言い換えられる性質のものでもあって、言葉として表現された・表現した時点で、言語化という酸化の下に腐食してしまうことだろう。自分が持つ自分への愛は至高のもので、他人が持つ自分への愛は陳腐なものに映ってしまう。

では自分とは確実に距離のある、表現媒体を一つ隔てた向う側にいる人の言葉だったらどう感じるだろうか。作り出された言葉とメロディの中にこの灼けつくものを見つけ出せば、疑問を掘り下げようとするやっかいな欲も少しは薄れるのかもしれない。言葉が持つ生身の体臭も体温もそこにはなく、想像力を元にした擬似性をまとったリアルとして、自己愛を具現化させる都合の良い解釈を施して取り込むことが出来るように思える。

音をはさんだこちらと向こうは点対称になっていて、この位置が重なってくれる保証を100%得ることはできない。それでも対称の対象となる領域の中では、何らかの感情を分かち合えている心強さがある。自己愛という結果から逆にたどれば、自分と他人とがここに同化している。他人の言葉でありながらも、その者の自己溺愛だとして突っぱねることもない。

対称だとか領域だとかいうことは意識されなくなり、自分に拡張されたストレージのように取り扱える自由があるからこそ、人は自分から遠く離れた言葉を求めて止まないのだ。ヒリヒリなるものは灼けつくものや自己溺愛を意味するだけではなく、自分を源とする音に対して、倍音というリフレクションを求めようとする欲望なのだということに気がつく。

感情の純潔が目の前の呼気に犯されてしまう恐怖よりも、自分の好きに取り込める言葉を求める安全性を選択することは決して安易な解答ではない。安全と冒険とを天秤にかけて一つを正解とすることに選択の自由はなく、好みにあうものさえ取り込めば、それが万人における正解となる。

自分にとっては正しいはずのヒリヒリも、吐き出していく時点で、次から次へと、目の前で為す術もなく酸化してしまう。人とはよくできたもので、その過ちを何度か繰り返した後に学習をしていく。自分の言葉を用いる危険を冒すことは愚かであると知り、遠い人の言葉に甘美な最大公約数を求めようとする欲望ばかりがふくれあがっていく。

cf.
スガシカオ "FAMILY" P:1998