ハイレゾ春秋(2017、年の瀬に思う)


ずっと思っていることではあるのだけれども、ハイレゾをハイレゾとして感じるようになるには、その音源のどこがハイレゾとして魅力的なのかと言ったポイントを見出す力が必要とされるのではないかと。逆に言えばそのポイントのないハイレゾ音源はハイレゾである必要もない、と。

今現在、ハイレゾ音源をWalkmanで聴いているのだけれども、メモリメディアに記録する音楽と言うやつは、ワウフラッターとか静電気によるノイズとか、そう言った外的要因による音声への邪魔が入らないので、自分にとっては本当にこれぞ夢見た近未来の素晴らしいアイテムだと。だからハイレゾと言う因子はもしかしたら、その近未来における、あくまでもオマケのような物なのかもしれない、とも。

「聴きたい音楽をCDの音質のままで全て持ち歩きたい」と言うのが、自分の高校生時代からの渇望だったので、今ではそれが満たされ、かつハイレゾという要素も出現してしまったがために、もしかしたらお腹いっぱい、かつ消化不良に陥っているのが今の自分なのかもしれない、などとも。

繰り返しになるけれども、ハイレゾなどと言うものは、音楽を聴く上でのオマケですよ、オマケ。それ以上でも以下でもない。そこに感動はあるかもしれないけれども、それが本質にすり替えられてはいけない。本質はあくまでもそこにある音楽。

そこまで行き着いてしまった2017年の年末、寝落ち明けの土曜日の朝であります。

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