犬は吠えるがキャラバンは進む / 小沢健二 (1993)

小沢健二は一連のヒット曲を飛ばしていた時代の残影が影響しているのか、多幸感の代名詞的に扱われることが多いように思われる。ところが、フリッパーズ・ギター解散後のこのソロ第一作目に関しては、その多幸感からはほど遠い、何とも言えないもの悲しい孤独感、孤高の極みに立って物事を見つめている小沢健二がそこにいるように感じられてならない。人々が幸せであることに首肯しながらも、どこかそこから距離を置いた視点で人間模様を歌として描いている小沢健二が、ぽつんと表情を隠して立っているように感じられるのだ。

だからこそ、そう滅多には聴ける作品ではなく、聴き終えた後にどっぷりと疲れてしまう自分がそこにいるのもまた事実。それは人の深淵に迂闊に踏み込んでしまったかのような疲れであるともいえる。思うに本作は究極の私小説ではないかと。今というこの世界に別れを告げ、まだ見ぬどこかの世界へと旅立っていく直前の、ちょっとした谷間の小休憩に描かれた作品であるかのように。そして、その深淵は小沢健二のそれであると同時に、自らが持つ、永遠に逃れることの出来ない深淵の存在を否応なしに思い知らされることでもある。

事実、この後に「オザケン」として化ける別ベクトルの名作『Life』を作り上げてしまうわけだが、だからこそ余計に本作における、バネが完全に押しつぶされた状態、何かが爆発してしまいそうな「私」の塊に魅力を見出してしまうのは、決して自分だけではないと信じたい。まだ目覚める前の王子様が自らに課した鎧を幾重にも着込んだ、完全武装の自己憐憫すら見出せてしまいそうな、非常に危うくも脆い存在である一枚。ひっそりと隠された、影ある青春の一ページは、誰もが持っているものなのだと信じたいのだ。

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