詠む音楽

名もなき詩

Mr.Children (1996)

つい数十分前に借りたばかりの CD。スロットに差し込むとやがて 4 つのスピーカーは、 1 曲目にはふさわしくない曲を送り出し始めた。その奥底から熱風を送り続けた太陽は、暮れる直前の東京上空を、炎天下に見とれるほど深く、そして青く色づけている。自動販売機が目に入り、サイドミラーを確認するや、ハザードをたいて端に寄せる。 CD の回転はそのままにドリンクを買い込み、シートに戻る。空は変わらずに遠い。

右に倒すウインカー。クラッチを踏み抜くには底の弱い革靴が、少しだけ気分にノイズを乗せる。オープニングにふさわしくない曲はまだ続いている。フロントガラスにはワンブロックごとに現われるかの信号。その都度、顔をしかめている自分がいる。気がついた時には歌詞が口をついて出ていた。気がついた時には、なぜあの日、この曲を聴いて泣いていたのか、過去に自問自答する自分がいた。

あれから数年。自分は歌詞にふさわしいだけのやりにくさを日々に要求され、日がめくられるたびに曲は遠くなっていた。あの日の自分は、あの日の自分に似つかわしくない涙を流し、かくある自分を勝手に思い込んでは悦に入っていた。それは間違いない。どれほど多くの人間が同じ曲を共有しようとも、自分にとっては自分という一つの個体しか存在し得ない。その思い込みすらも、自分の言葉からは脂のように浮き上がり、やがて薄黒く塗りつぶしていた。

気がついた時には、やや手遅れのようにも見えた。

檻に入り込んでみれば、自分はプレートの説明書きでのみ完結されていた。当たり前であるかのように次々と朝を興している自分自身すらも、観察対象になってみれば磁針は途端に方向を失い、やがて涙の効用も歌の作用も忘れてしまった。一粒一粒の錠剤で夜を流し込んでいた。日めくりが台座ごと入れ替えられると、目を覚ますとともに、血中濃度と血糖値を競わせるかのように苦いアルプラゾラムを缶コーヒーで飲み下し、無理矢理自分を白日にさらして歩くようになった。やがてボディを失った自分をスタイルで覆う日々で、集中を緩和させては、拡散を収拾させようという矛盾と共存していた。

そしてまだ空は青。曲は終わろうとして、ふと歌うことの恥ずかしさを炭酸でごまかそうと一口流し込んだ。それが身体の底に届く間もなく、また次の歌詞を口が追う。肝心な時には現われないくせに、強引にピリオドを打たせた途端に現われてくる。タイミングが悪いよと、呟くでもなく言葉にしながら、また赤になろうとする信号を見つけて右足に力を入れる。閉じてしまうように思えるのならば、滑り込んでしまえばいい。檻の鍵穴には好奇心で差し込んだ棒きれが抜けずに残ってしまい、肝心の鍵はもうどこかに行ってしまったのだから。