詠む音楽

10 years

渡辺美里 (1989)

結実するには十分な時間、そして知らずうちに形を変えるにも十分すぎる時間。あれから 10 年経ってしまった。年を重ねた分だけ、先へと流れ行く時間は短くなっている。明日は今日の延長線ではなく、むしろ同化してしまっている。すなわち昨日は今日であって、一週間前と二週間前の差も小さい。

あの日、手元にあったはずのものも、もはや失われてしまったかもしれない。 「若さ」 等という冗談めいた言葉も、当時の自分を投影した街行く者を見れば、やはり質量を持って目の前に迫り、そしてその言葉に触れるにつれ、何かが確実に剥がされて行く。悩まないことはなく、考えないことはなく、それでも体が先に動き、頭は理を伴なわずとも可能性のみが先行していた。筋道というものがあったとしても、それはあまりにも稚拙であったように、それでも反省ではなく、苦笑と自嘲と、そして少々の自慢の下に、あの日々はあった。

些細な怒りであっても、意味のない笑いであったとしても、それらありとあらゆるものが自分を構築して行った時。社会に対する皮肉よりも、そこへの動力が勝り、故に導かれる現在の姿を見る度に浮かぶ苦笑。将来という願望はコントロールされる為にあり、流れを作り出すことを井の中で可能としていた青写真への自嘲。それでも 10 年後を形成する 10 年前を作っていた事に対する、自らの時間と環境のみを誇る自慢。

あの日と今日はジャンプしてリンクされるものではない。滑り、うねり、からみ、流れるのではなく、動いて今にやって来た。写真を並べ、そこにある顔にセピアを重ねたとしても、進行形であろう 10 年という半端な器は、まだ感傷の下に振り返る額縁ではなく、源流として、発見と休息を見出す為の救われるべき泉であるはず。

たとえ今日が明日であっても、 10 年前は昨日ではない。あの日に何を思い、何を描いていたか、思い出せないほどの時間でもない。先を見ようとしても、背から離れることはなく、駆け足で逃げようとも、振り払うことは出来ない。顔と記憶と時と場所、重ね、交わされてきた手も、体温のように日々変わることなく、そしてあの日の肌はない。

たとえ自分が繰り返さない時間であっても、また今日からその道を歩む者がいる。環境が変わろうと、社会が変わろうと、街が変わろうと、あの時の僕らに彼らが近づこうと、進むべくしてやはりまた生まれてゆく。その者たちが重ねていく時間は、自分自身のトレースであり、 10 年先を描きながらも、地に足の立つその刻だけを記し、そこに気がつかずに後に振り返るべく、己を作るべく形を抱えて行くのだろう。短くなる明日を片手だけで扱い、転がしながら。