詠む音楽

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大江千里 (1988)

気弱な青年時代、などと嘲るまでもなく、もしかしたら青年という存在からして脆弱な、あまりにも曖昧な時間と身体と、ちょっとの精神の共存を緩く区切っただけの、実体すら危うく、 「もの」 とも形容できない霞でしかないような。

少年と青年の区切りは比較的明確であったとして、青年へと重ねて行く段階は何なのか。もっと具体的に突き詰めれば、おそらく半ば社会的な義務教育と課している高校生活を終えた時点からの、そのエネルギーの個人差が激しく、またその色彩、明度、コントラストに、あまりにも個人差、そして日較差、むしろ時較差とも言える変化を抱え続けられる、そのバイタリティが途絶えるまでの、もしかしたら客観的にそれを見つめた時点で既に終止符が打たれている時間の、強力な時限的なバリヤの中に、何かを抱えている時間が青年として囲われる曖昧な三次元の、定義すら必要のない、初めから存在しない、やはり実体のない時間のゆるいフェードアウトまでを語るのだろう、と。

個人差である。そんな答えにもならないありふれた言葉を岩として据え、引き寄せた影を押さえつけたところで、結局は世代という普遍的な部分に重なった時点で個体は消え失せ、誰もが共通な形を抱えながら、時間の流れに追いかけられるという感覚に対してすら鈍感であり、むしろ実体を意図的に放置することで、流れに乗ることだけに専念するために与えられた時間の中で、ありきたりに悩み、ありきたりに語り、ありきたりに抱く、感情、言動、衝動に溺れることが言葉の意味であるならば、あまりにも力のない時間となってしまう。しかしそれもまた事実。

実体があるように勘違いされがちな社会という靄を目の前にして、何も目に入っていないかのように、何も恐れることなく、周囲という名の自分の世界に完結し、そこでの王様を楽しんでいるときだけに与えられる青春という文字は、余りにも恥ずかしすぎる精神的質量を有しているために、そこにいる時間だけは軽く笑い飛ばし、そしてふとそこから外れ行く身体に気がついた瞬間に、すがりたくなるような、そんな醜い時間すらもかけがえなく充ち満ちて足り、むしろ飽和させんばかりに満喫するならば、単純なありふれたポップス、それでいて抱きめられずにはいられない自らの身体が全てであるかのように、一人称での愛のような、結局のところは自らの領域だけでしかないものを語り、青年である自分と鏡の前で向かい合いながら、当然のことながらやはりそんな漂うだけの時間であることには気がつかずに、また貪ることに全てをかけるがごとく、中心に生きることを無意識に意図し、朝の玄関を開けて輪の中へと紛れ込んで行く。