詠む音楽

深海

Mr.Children (1996)

Dive.

深淵。何よりも深い水の底へ。

水圧は無理に眠らせていた細胞を活性化させて行く。その全てが水没して初めて息を吹き返すシュール。何に押さえつけられるのではなく、まるで望んでいるかのように下へと向かって行く体。細胞は繊毛を得て全身を駆け巡りはじめる。同時に覚醒する脳細胞。全ては現実に置かれている意識。身を包む水こそが現実からかけ離れた存在なのか、現実にのみとどまろうとする意識の方がよりリアリティあるものなのか。

何を望むとも、確実にそこにあるのは現実というパッケージであり、その中であまりにも当り前に今を生きている。何もかもを沈めてしまおうとしても、それまでに背負うてきた 「僕」 を切り離せるはずもなく、だとすると重石になっているのは他ならぬ、自重なのだということに気がついたとしても、結局の所は抜け場も何もなく、今しかここに残らないのだという事実のみを認めてしまう悔しさ。それも当り前であり、疑う者自体を疑わなくてはならない現実の中で、それでも疑わずにはいられない、日常を曝け出して切り倒さなくてはならない現実で、ひたすらに矛盾を深淵に沈めようとするからこそ、続く限りどこまでもどこまでも終わるところまで。

光さえも届くはずのない水の中で、屈折して見せるものはやはり 「現実」 というビジョンであり、体が働けば働くほどにそれを、無理矢理に、瞑ったはずの目、その奥の網膜に直接映し出す心というプロジェクタを取り外す事は出来ない。だとしたら、ひたすらに 「沈む僕」 は何も見えないくせに全てを見せようとする水の中で、嘯 (うそぶ) く思春期前の子どものように分かったような涙を流しながら、単純な曲を繰り返し繰り返し繰り返し。歌を繰り返し、同じ涙を繰り返し。そして像でしかなかったイメージは立体になり、全てを投げ捨てた深淵から返ってきた体に、また背負わせてゆく毎日を続け行く。浮く体ではなく、歩いて行く足。